東日本大震災について社長雑感

あの日脱出していなかったら

後悔していたけど、脱出していたことは、良かったかも?

 3月11日 11:26 仙台発 はやて に乗って東京に移動していました。
その日、大震災と大津波で、地元名取市閖上では、多くの友人、子供達の同級生、そのお母さん、商工会でお付き合いのある方々などが亡くなりました。

 長女の同級生のIN君は、目の前で家族全員が津波に流されてしまいました。お母さんはママさんコーラスの友人です。とっても明るい人でした。妹のEちゃんは、いつもお母さんのコーラスの練習についてきて、横で一緒に歌っていました。
次女の同級生のTAちゃんは、今度成人式を一緒に迎えるはずでした。成人式の着物を購入した直後に、震災にあい、津波で家も流され、写真もなく、葬儀の慰霊が、お母さんと一緒に撮影した成人式の着物を購入した際にとった、着物屋さんの写真でした。お母さんのAさんも一緒に亡くなりましたが、生前、今度ゆっくりお茶しようねー、って約束していたのを実現できなかったことが悔やまれます。公民館で避難していたのに、中学校まで移動しようとして母子ともに亡くなってしまいました。

 他にも、、、、沢山、沢山、本当に多くの人が亡くなりました。
私の友人達は、遺体安置所にも通い、亡くなった人達の顔を見て、見送っています。

 私は、遠く名古屋にいたから、見送ることができませんでした。

 多くの友人からいろいろな話を聞き、あの日、11:26のはやて に乗ったことを、悔やんでいました。
いえ、最近ではなく、ずっと以前から。震災後、ずっと申し訳ない気持ちでいっぱいで。
特に、震災後に、メール配信システムの「eメッセージ」の問合せが増え、おかげで、うちの会社の売上が上がれば上がるほど、多くの人の犠牲の上にあることだから、本当に申し訳なく、そして、その日、その場にいなくて、困っていた多くの人に、すぐに衣服を提供するなどができなかったことを後悔していました。

 あの日、宮城を脱出していなかったらどうしていたか?
恐らく、翌日、町内にふれまわった、なんでもいいから衣類を提供してくれ、というのに提供していただろうし、友人達と同じように遺体安置所をまわっていたでしょう。会社業務は二の次になっていたかもしれない。いや、名取市役所には少なくとも出向いて、社員達に市役所業務を手伝うように指示していたでしょう。特に市役所のホームページの更新をなんとか市役所内でできるように奔走していたことでしょう。たぶん、そもそも電気がないのだから、それはとても大変なことで、名古屋で更新をした方がはるかに早かったことは容易に想像できます。

それから、(後悔や申し訳ない気持ちから)この夏2か月間業務そっちのけで、社員まで巻き込んで、灯篭流しと花火のために、毎日奔走したのと同じようなことをしていたことでしょう。

 被災地にいてできたことと、被災地にいてはできなかったことがあり、
被災地にいてできたことは、きっと他の誰かができたことしかできなかった。
私が宮城を脱出して、名古屋にいたからこそ、遠方から名取市のホームページも更新できたし、情報を得て、情報不足の宮城の人達にフリーダイヤルで情報提供できたし、メール配信のサポートもできた。これは私にしかできなかったことで、たぶん、被災地にとどまってできたことよりも、より多くの人のお役に立てたような気がします。

 亡くなった人達には、見送ることもできず、本当に申し訳ないのですが、もしかして、あの日、宮城を脱出していたのは、何か運命だったかもしれません。脱出していたことにより、少しは地元のお役に立てたのではないか?と、ようやく、本当にようやく、前向きに考えられるようになりました。

 これから、生きている人達、特に最近、夜になると体が震えると言っている精神的に病んでいる友人達、それから、事業再建で苦しんでいる地元の事業者の方々のために、何か少しでもできればと考えています。


平成23年12月16日
河北新報の取材を頂いてお話した後、じっくり考えたこと
(株)アットシステム 佐宗美智代

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